原宿に死す

お前が消えて喜ぶ者はオールで殴ればすぐに死ぬ

点けるタイプの魔法

8時ちょうどには目が覚めていたが、暖房器具のない部屋は寒すぎて布団に籠城しているうちに昼になっていた。

いい加減起きねばとくまちゃんの半纏を手繰り寄せたところでかたんと軽い音を立てて何かが落ちた。

甘い色の光を零す夜の街灯、あるいは魔法少女が悪と戦うためのステッキのようなライトだった。

きゃりーぱみゅぱみゅ2018年ツアー星屑のCHERRY MARTINIのコンサートライトだ。そうだ、昨晩はコンサートへ行った。そして興奮のあまり物販でコンサートライトとピアスを買って帰ってきて、布団の中でライトを点灯させて遊んでから寝たのだった。




きゃりーぱみゅぱみゅに会ってきたのだ!




生きていたんだ。僕が聴いた客席の少女の声に反応して笑っていた。ARではなかった。2次元でもなかった。同じ世界の延長線上に存在していた。

赤い幕が上がって、ステージの上の大きなマティーニグラスの中にきゃりーぱみゅぱみゅの姿を見た瞬間涙が溢れて、それから最初のMCに入るまでの3曲の間ずっと胸の前で指を組んで涙を流していた。前の席にはずっと腕組みで時々オペラグラスを覗いて頷く彼氏面おじさんがいたが、こちとら彼女面おじさんである。

でも泣いてばかりじゃない。すごく嬉しくて、楽しくて、胸がいっぱいだった。


チケットを譲ってもらった方に「こういうライブ初めてなんです」と言ったら「そうなんですね!きゃりーちゃんのライブすごく楽しいですよ!」と言ってもらったのを公演中時折思い出した。その通りだ。とにかく楽しかったのだ。

ステージセットは「2年半姿を眩ましていた伝説のキャバレー・ガールの復帰公演」というコンセプトに沿って、最初はきゃりーぱみゅぱみゅがすっぽり入ってしまうような大きなマティーニグラスやバーカウンター、次はどこかにあるようでどこにもないとどこか直感するくたびれたキャバレーの入り口、そして最後にぴかぴか光るKYARYのネオン。物理背景じゃん!すごいな!?あとダンサーめっちゃ近い、バックダンサーっていうか彼らも曲の一部なんだ……すごい……未知の体験だった……


実のことを言うと、今回の公演で知ってる曲は数曲だった。なにせ追っていたのは何年も前、チケットを取ったのは3日前。そして原稿中。予習の時間もなかった。ていうか実は今も原稿中だし締切まで10日切ったんだけどこんなことしている場合ではない。死ぬのかな?


https://udur.hatenablog.com/entry/2018/12/05/143933


それはさておき、上の記事での最後に「ついていけるかわからない」と書いたのはそのことだった。普段アイマスしか行ってねぇ完全アウェイ人間でノリがわからないというのもあるが(コンサートライト振れなくて口惜しかったがとりあえずアイマスペンラ持っていくのはやめてよかった)、特にノれずただぼんやりと時間を過ごしてしまったらどうしようという懸念だ。

杞憂だった。本当に杞憂で良かった。

まず開幕曲「恋ノ花」の時点で聴いたことがなかった。だがその後の反応は上記の如くである。




アンコール。ぴかぴかの金の紙吹雪が大量に降って、しかしそれは客席には落ちず、あくまでも平面的にステージにだけ落ちていって、その瞬間ようやく「この世界の延長線上にいる」と輪郭を掴めてきたはずのきゃりーぱみゅぱみゅに現実感がなくなって、




ああ、そうか。神様が画面の中に帰っていく。




閉演後、改めて客席を見渡してみればいろいろな人がいた。

おじさん通り越しておじいさん。きゃりーぱみゅぱみゅみたいな格好の原宿系の女の子。恐らくは夫婦であろう二人組。僕と同様初めて来たらしい男性。ちょこんと座席に座る小学生くらいの少女たち。

みんなが「きゃりーちゃん」と呼んでいた。叫んでいた。

その一部としてあの場にいた。







「何かきゃりーに質問したいこととか言いたいことありますか?」と恒例らしい質問コーナーがあった。反射的に挙手した。真面目でひたむきな高校生のように、ぴんと高く手を挙げた。

きゃりー様、いや、きゃりーちゃんに会いたくて。特別に好きで。来れて良かった。こうやって見ているだけで泣けちゃって。どうしたら泣かないでいられますか。

言いたいことは決まっていたのに言葉にできる自信はなかった。それでも、手を上げた。

数人が選ばれて質問したりリクエストした後、「これで最後かな」ときゃりーぱみゅぱみゅが客席を見渡した。




「えーとねー……じゃあそこの、緑のTシャツの女の子!」




きゃりーぱみゅぱみゅが選んだのは僕ではなかった。

ああ、だけど、何故だか心が晴れやかになった。


「すきないろはなんですか」

「ラベンダー色!紫のパステルっぽい色が可愛くて好き!」


Kawaiiの体現者の好きな色を聞いたら、なんだかそれだけで泣けてきた。




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青い髪を振り乱して鉄の首飾りを外したいんだ

きゃりーぱみゅぱみゅに出会ったのは高度1万mを往く飛行機の中だった。高校1年生、海外短期留学からの帰路である。

留学といえど格別勉強ができるわけではない。英語は今に至るまでずっと苦手だ。この間likeの過去形がわからなくて涙目になった。

そんな自分にとって英語圏への留学は短期とはいえ地獄だった。なにしろ舌先三寸で生きているものだから言葉の通じない場所は手足をもがれて流れる血を止める術もないまま極寒の中に放置されるようなものだった。関係ないが当時季節は冬、気候の変化に留学中三度子供の嘔吐を間近で目撃し海外のウイルスに耐性がなかったためかひどい風邪をもらって帰ってくることとなった。

兎角コンディションは最悪だった。風邪のせいで吐き気はするし頭痛はするし耳抜きには失敗して耳鳴りはするしステイ中かけられた「あなたとても大人しいのね?(話せないだけである)」という言葉が延々と頭を巡る。機内で映画など見られるわけもなく、ただ慰みに音楽を聴いていた。その中でもひたすらリピートしていたのはアメリカ人演歌歌手ジェロがカバーする「勝手にしやがれ」、当時AKB48メンバーであった岩佐美咲がカバーする「瀬戸の花嫁」、そしてきゃりーぱみゅぱみゅの「CANDY CANDY」だった。


https://m.youtube.com/watch?v=UoK8DaJRDaM


今もだが、音楽カルチャーというものにてんで詳しくない。テレビもあまり見ない。幼少期から見る番組といえばNHKディズニーチャンネルである。

きゃりーぱみゅぱみゅ、という存在くらいは知っていた。奇妙な名前の可愛い女の子がモデルをしていたはずがperfumeの演出家にプロデュースされてめっちゃ曲出してるくらいの認識だっただろうか。

だからフライト中の半日聴いていた音楽にも、不思議な曲を甘い声の女の子が歌っている、としか思わなかった。そしてタイトルと名前を見てああ、これが噂のきゃりーぱみゅぱみゅかと思うだけだった。体調不良からの慣れない乗り物酔いでそれどころではなかったともいう。

ただ、繰り返される「CUTIE CUTIE SO CANDY LOVE」だけは帰国して1ヶ月かけて体調を治している間にも耳に残っていた。

砂糖玉には中毒性があるのだ。


そしてつけまの女王と出会う。


https://m.youtube.com/watch?v=NLy4cvRx7Vc


最早概念の輸入である。

この衝撃を表すのに”黒船“以外の言葉があろうか。未だに思いつかない。

感動という言葉すら生温い、これはまさにブレイクスルー、パラダイムシフトである。田舎の自称進学校の底辺で卑屈に笑う男子高校生の凝り固まった思想を飛び越える。


「寂しい顔をした小さな男の子 変身ベルトを身につけて笑顔に変わるかな 女の子にもあるつけるタイプの魔法だよ 自信を身につけて見える世界も変わるかな」


他人を呪って息をした。自分を呪って笑うしかなかった。全てを呪って生きてきた。そうやって見る世界が苦しくないわけがなかった。

積み重ねた怨嗟は重くのしかかる。ただ上を見れば良いなんて言葉は、例え過去の自分にひとこと言えるとしても選ばないだろう。早寝早起きは続けた方がいいぞということくらいだろうか。

それでも、人生のそれなりに早い段階で上を向くことができた。

僕にとっての「魔法」は「つけまつける」だった。


CDショップなど存在しない、精々レンタル落ちした何年も前のCDが捨て値で売られている程度の田舎である。通販でCDが買えることなど知る由もない。近所のGEOでアルバムを借りた。シングルを借りた。結局CDの種類について理解したのはきゃりーぱみゅぱみゅでだった。

何度もにんじゃりばんばんのMVを見た。つけまつけるのダンスを真似した。多少なりとも変声した男子高校生には出しづらいPON PON PONをカラオケで叫んで喉を潰した。ファッションモンスターに触発されて一度だけ原宿に足を運んでみた。極彩色とパステルカラーがお互いに無関心なまま同居する街は行き止まりの少年にも眩しかった。高2になってすぐ学校を辞めた。行き場がなくて毎日マックでゲームしながらキミに100%を聴いた。環境が変わってもインベーダーインベーダーを聴いてのんびり本を読んで過ごしていた。大学受験前日には試験課題図書を読みながらふりそでーしょんを聴いた。大人になりたいと思った。成人式なんて出たいわけじゃないけど、振袖を着たいわけじゃないけど、きゃりーちゃんのように金髪やピンクの髪にしたかった。


長々と半生を交えて書き連ねてきたけれど、自身の体験があるから自分が特別できゃりーぱみゅぱみゅが特別だと言いたいわけではない。これは凡百な、どこにでもいる、ライトファンと、何百万人とファンを抱えるアーティストの、よくある関係性である。

だけど確かに、かつての僕にとってきゃりーちゃんは特別だった。顔の見えない何百万人にそういう「特別」な話があったのだ。そういうだけの話だ。


大学進学後、忙しい一年の中でCDを追う時間もなく徐々に忘れていった。CDを取り込んだウォークマンは実家のどこにあるかもわからない。


だけど、どうしてか今更になって12/8のチケットを取ってしまった。




どうしよう。




アイマス以外のライブ(コンサート?)に行ったこともない。チケットジャムとか初めて使った。あっ定価です。

コンサートってペンラ振らない?よね?物販って何を買うの?ていうか席って立つの?座るの?

右も左もわからず既に泣いている始末である。そもそもなんでこんな急にチケット取ったのか。ここ数ヶ月急速にVtuberにハマっていたフォロワーが推しの引退報告をRTして以降一切のツイートをしてないからだよ。生きてほしい。

そう、だから、人間推しは推せる時に推しておかないといけないのだ。いつだって原稿を書く時は明日の命はないものと心得て書いているだろう、それと同じだ。でも18日締切の原稿は5日現在プロットできたところで、24日締切の原稿は未だ白紙。死ぬのかな?

それでも一度だっていい、画面の向こうで、カラフルなピンクのセットの中で踊っていたきゃりーちゃんを生で見てみたかったのだ。あのKawaiiの体現者が僕の住む世界の延長線上に存在するんだと知りたかったのだ。人間死ぬ時は死ぬ。昨日は4月に死んだ爺さんが食べるつもりで買っていたチーズをアテに酒を飲んだ。これを買った時の爺さんはきっと自分が死ぬことなんて考えていなかった。ただ明日の自分の楽しみのために、すっかり忘れ去られた床下のワインと共に食べようとだけ思っていたはずだ。ならば原稿が死のうが悔いなく前のめりに推して生きたい。もう何の話かわからねぇ。


そうこうしているうちにチケット譲渡者から連絡が来て当日の日程が決まった。もうあと戻りはできない。正直言うとめちゃめちゃ怖い。ついていけるかもわからない。


それでも、楽しもうと思います。以上!








私信:合同サークル持ちかけといてなんだけど新刊落としたらマジごめん

荒野を歩く少女たち

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こんばんは、梅太郎と申します。

ツイッターにこういったコメントをいただいたので少し考えてみました。肉じゃがを作りながら。カルーアミルクを飲みながら。

ただ、当方SideMをメインとしているPなので、シンデレラについてかなり的外れなことを言っている可能性があります。ご了承ください。

というより一度たりとも考察なんて立派なことはしたことはなく、全ては妄言と自分に都合のいい解釈です。それでもわざわざ聞いてくださったので妄言でもよろしければ見ていってください。



まずもって、ガールズ・イン・ザ・フロンティアは夢を壊した果ての荒野を歩く現実の曲だった。そう思い聴いた。


曲を聴いて最初に驚いたのは、ファンのコールが曲中に入っていることだった。アイドルたちの歌う曲の中に当然の如くオタクの声が入っているという事実に、賛否は置いてもなによりもまず胸を掴まれたような気持ちになった。

同じ作詞家のあんずのうたのような電波ソングなら話は別である。アイドルという偶像性よりも、双葉杏というキャラクター性をアイドル本人が前面に売りに出した曲だからである。ある種飛び道具とも言える。

しかしガールズ・イン・ザ・フロンティアは「シンデレラ」「舞踏会」とシンデレラガールズを想起させる単語こそ散りばめられているが、曲自体は一般的な、要するにキャラソン感の少ない曲である。そこに前提として「ファンの声」が入っている、そのことはまるで夢から醒めたような衝撃だった。

そう、全ては夢だったのだ。イリュージョニスタ!から一年、長く続けられた一晩の夢は荒野の朝陽を迎えた。


話は変わるが、同時実装された新共通衣装ネクスト・フロンティアも第一に「思いきったな……」という感想を抱いた。

今までの共通衣装といえば、まさにシンデレラのドレスを思い起こすスターリースカイ・ブライト、モデルとなった現実世界の某アイドルグループから着想を得たであろうアクロス・ザ・スターズ、これも恐らく別事務所を参考にしたかスポーティなパーティタイム・ゴールド、夜会服とアイドル衣装の合いの子のようなショータイム・イリュージョンなどである(スタスカの色違いであるディープスカイ・ブレイズはここでは言及しない。関係ないけどスタスカとディプスカを着せてラブデスをMV再生すると重くてエモい)である。元々VRの衣装であったPTGはやや毛色が違いスポーティな印象だが、ほとんどは「女性」のアイドルらしい衣装だった。

そこに登場したのがパンキッシュでロックな新衣装ネクスト・フロンティアである。黒を基調とし、ゴツいベルトには身を固めるようなスパンコール、そして後ろにはドレスの名残のレースの尻尾。

決して今までの衣装を悪く言うつもりはないが、お姫様の殻を破った少女たち、自分の足で歩くシンデレラの衣装であった。


曲の話に戻るが、歌詞はどこまでも夢想に厳しい。少女の頃に夢見たの灰かぶりおとぎ話は埃かぶりとなり、夢を他人に託すなと叱咤し、ガラスの靴で荒野に放り出されれば星の輝きでさえ今の自分には悔しい。

だがそれですら彼女たちは「かけがえない権利」と歌う。シンデレラを否定することはない。ガラスの靴は地平線を追うブーツに、シミひとつないドレスは命綱であるバックパックに姿を変えたのみだ。夢から醒めた先は正夢である。歩き続ける現実のみである。ただそれだけの話であった。

今まで茫洋と抱いてきた「シンデレラガールズ」のイメージは、美しい灰かぶりがプロデューサーという魔法使いからドレスとガラスの靴を受け取り舞踏会で輝くものであった。しかしガールズ・イン・ザ・フロンティアに至った現在、アイドルとは地平を目指す少女たちであり、プロデューサーとはバックパックの荷物を分け合い、血だらけになりながらも共に歩む者とも言えるのかもしれない。


長々とまとまりのない話を続けてきたが、つまるところ「自分の足で歩けシンデレラ」とは何なのか。

フルコーラス歌詞が出ていない以上こうしてああだこうだと言葉をこねくり回し論じるのもナンセンスだが、あえて今述べるならば、ガールズ・イン・ザ・フロンティアが良くも悪くも「プロデューサーに向けられた曲」でない以上、アイドルのみならず全ての少女に向けた言葉と言っても良いのではないだろうか。

誰しも地平を目指す足があるはずなのだ。他人に託してはならない夢を抱いてもいいはずなのだ。現実はそれを突きつける。夢を見る権利はお城で王子様とお姫様の恋を夢想できる少女のみに与えられたものではない。運命共同体、あるいは共犯者である者のみがそれを共有することのできる途方もない夢だ。


こんな感じでよろしいでしょうか。酒が入っているので支離滅裂ですが許してください。

それから、デレステ3周年おめでとうございます。原田美世さんSSR楽しみにしております。




10/21追記

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ありがとうアイドルマスターシンデレラガールズスターライトステージ

「諸星きらりはカワイイを諦めません」という宣言(再録)

これは2018/1/4にはてな匿名ダイアリーに投稿したものの再掲です。


ちょっとした自慢ですが、嘘です、多大なる自慢ですが、デレステの新年無料10連で諸星きらりフェス限SSRを引きました。ありがとうございます。

よって、思わず喜びのあまり書き散らした文章が以下です。当方SideMをメインとしている男性Pなので、シンデレラについても「カワイイ」についても的外れなことを言っている可能性があります。ご了承ください。

いやもう可愛い。最高可愛い。涙出てきた。人間、視界いっぱいに『カワイイ』が広がると何も考えられなくなるのである。

諸星きらりの衣装を見て思うのが、「女児アニメのアイドルの服」って感じで、いやもう完全に某アニメプリホニャララを思い浮かべるんだけどまぁそこは関係ないので置いておく。

何故女児アニメが重なるかといえば、「『女児が考える可愛さの追求」に近しいからだ。

女児向けというと思い浮かぶのが、お花やリボン、小動物、フリルにピンク、兎にも角にも『大好き』を足し算!足し算!!時々掛け算!!!と一歩も譲らない、引かない、減らさない。特に体の小さい女児だからこそそれは映える。小さな体にありったけの『カワイイ』を詰め込むのは立派なファッションとしての主義主張だ。

ところで、「靴のサイズが大きいとデザインが可愛くない、小さなサイズのものと同じ小物を使っていてもバランスのせいかどこかちぐはぐして野暮ったくなる」という嘆きを見たことがある。自分は男なので正しくその悩みを観測することはできないかもしれないけれど言いたいことはわかる。要するに、体のことで『カワイイ』を諦めてしまう段階があって、諦めざるをえない層が一定数いるということだ。最も身近な「体のこと」といえば、成長がそうだろうか。

大きくなると諦めなきゃいけないものが出てくる。靴だけじゃない、もう大きいんだからフリルはやめなさいと言われ、大人なんだからリボンは痛いよと止められ、そうして引き算することを覚えていく。それは成長ではあるが、成長とは即ち挫折を覚えることでもある。それの良し悪しは今は問わない。

兎角、諸星きらりは、17歳で186cmの少女は、人より早く、人より多く、「大きいんだからやめなさい」と言われてきた……かもしれない。少なくとも、彼女自身そういう視線を受けてきたとは感じているだろう。

そこで彼女はどうしたかと言えば。

全く諦めなかったのだ。

嫌なこともいっぱいあって、だけどきらりには『大好き』がいっぱいあって、それを一つも取りこぼさず、大事に大事に抱えてきた。可愛い服がないなら自分でアレンジして、デコって、作って、集めて。

そうして彼女はアイドルになった。『可愛い』を、『大好き』を捨てなくてもいい場所に来た。

デコレーションいっぱい、色味いっぱい、アクセサリーいっぱい、彼女の衣装は「私、諸星きらりは諦めません」という宣言そのものなのだ。きらりは諦めなかった。だからみんなも諦めなくていい。可愛くっていい、大好きのままでいい、足しまくって『大好き』のお城を作っていってもいい!そういう宣言だ!

先述した通り、「小さいから可愛い」というファッションは確かにある。だが、その系統を引き継いだきらりは「大きいのに可愛い」なのかというと違う。きらりは「大きいから可愛い」のだ。大きいから、沢山の『カワイイ』をその身に詰め込める。挫けそうになっても、折られそうになっても、諦めなくていい。

言及し損ねたが、そういった詰め込みまくりの『ゆめかわいい』が寛容の精神、所謂原宿系ファッションであり、諸星きらりが原宿系を得意としている理由なのではないか、と考えている。

その辺は前に書いたブログでも読んでほしい(宣伝)

https://www.google.co.jp/amp/s/anond.hatelabo.jp/touch/20170814160100%3fmode=amp

諸星きらりをシンデレラにしてあげたい。担当外ですが、心から思いました。終わりです。

久々に自分の記事見に来たら身長間違ってましたね。いやお恥ずかしい。一発書きだから許してください。

カワイイは研鑽する全ての者のために(再録)

これは2017/8/14にはてな匿名ダイアリーに投稿したものの再掲です。


最初に言っておくと、当方SideMを中心に活動している男性Pでシンデレラはにわかなので、シンデレラについても「カワイイ」についても的外れなことを言っている可能性があります。ご了承ください。

まぁ驚いた。カワイイのである。とんでもなくカワイイ。びっくりするくらいカワイイ。何がってメロウ・イエローの3人と彼女たちの新曲、「Kawaii make MY day!」である。先行披露されたデレステ内のイベントは終了し、既にライブでも披露された今書くのも時期外れな気はするが、自分の中でカワイイの爆撃に散らばった語彙を拾い集めていたらこんな時期になってしまった。

『カワイイ』ってなんだ?

それは永遠のテーマである。一般に『カワイイ』の言葉に付随するのは、幼児性だったり、女性性だったり、要するに自分のような成人男性が一番遠いものである。

しかし、だからこそ考えなくてはならない。カワイイものが大好きだからだ。カワイイとは一番遠いから、そしてこの歳になって「カワイイものが好き」と言えるようになるまで遠ざけてしまっていた、諦めてしまっていたものだから、カワイイに少しでも近付くためにきちんと考えなくてはならないのだ。royal weにするつもりは更々ない。ただ俺の話である。

ただ、カワイくなくて良い自由が誰にでもあるなら、カワイくて良い自由も誰にでもあっていいはずだ。

ちょい足しという言葉は深いなと思った。法子ちゃんはすごい。カワイイのに本質を突いてる上カワイイ。最強である。なるほど、カワイイは足し算の美だ。

「カワイイは研鑽する全ての者のために」。こう書いたけど、本当は研鑽という言葉は少しずれている。『カワイイ』は足していくもの、『大好き』を積み重ねていくものだからだ。

研鑽、研ぎ澄ます、つまり引き算の美は『美しい』の方が相応しい。美しい顔とは崩れたところがなく、余分なものを削ぎ落とした平均の顔である。完全な球形は美しく、また尖ったところがないので丈夫でもある。『美しい』は防御力なのである。

対して『カワイイ』は足していくものである。カワイイものとカワイイものを足していけば最強にカワイイものが出来上がるのだ。『カワイイ』は魔法で、攻撃力なのである。

曲調こそ渋谷系だが、彼女たちが『カワイイ』を探す場所が原宿なのも良かった。原宿系というファッションジャンルがあるけれど、まさにその根幹にある理念は『カワイイ』の精神なのだ。

原宿系のファッションは、シンデレラガールズでいえば諸星きらりなどが例に挙げられるだろうか。盛り盛りのデコレーション、色味たくさんのパステルカラー、フリルにリボン、彼女の身長でも収まりきらないゆめかわいい。そう、原宿系とは『大好き』を一つも否定せず、盛りに盛って積み重ねていくファッションなのだ。

原宿系の代表的なアーティスト、きゃりーぱみゅぱみゅの曲『ファッションモンスター』にはこんな歌詞がある。「だれかのルールにしばられたくはないの」「鉄の首飾りをはずしてただ自由にいきたいだけ」

原宿は自由の地だ。堅い校則から脱却し、なりたい自分、本当の自分にメルヘンチェン……メタモルフォーゼする放課後。好きなものと好きなものを足したら最強。個性って最高!原宿系という文化は受容の文化なのである。

しかしここで一つ、問題がある。先程「『美しい』は引き算」「『カワイイ』は足し算」と言った。美しいは平均に近付く美だ。しかしカワイイは際限なくどんどん重ねていける。そう、終わりがないのだ。

ある人が「女子力は有る無しではなく高い低いでしか評価されない。天井なき成長を求められる残酷な基準だ」と指摘していた。その話の本質はジェンダー論であったので今は置いておくが、カワイイも同様である。果てがなく、これが義務であれば苦しいだけだろう。

義務であれば!

イベントの時からほとんど確信していたが、先日ツアーの感想とともにRTで回ってきた二番以降の歌詞を見て、やっぱり心配する必要なんてなかったのだと勝手に胸を撫でおろした。

別にモテたいわけじゃないんです

ただまっすぐ笑ってたいだけなんです

Cメロ歌詞である。

誰かのカワイイを否定はしない(そんなことは絶対してはいけない)、しかし自分のカワイイは自分だけのもの、他の誰かに憧れようと、理想像とぴったり一致するわけではない。あの子みたいになりたい、だけど前髪はぱっつんよりアシメがいいな、ネクタイよりリボンがいいな……これもまたちょい足しである。

即ち、なりたい自分になっても、それはそれが誰かから称賛されるものではないかもしれない。個性は自由だが、自由の責任もまた重い。

だけど、他でもない自分が創り上げた『カワイイ』のはずだ。

異性のためでもない!同性のためでもない!それ以外のためでもない!ただ、自分がなりたい『カワイイ』のために!

何故「最初はあの人に見てほし」いのか。あの人のためにカワイくなったから……ではない。カワイイ自分がカワイイから見てほしい、ただそれだけなのだ(思うに「あの人」は彼氏ではない。精々、ちょっと良いなと思っている男の子である)

カワイイの道は果てしない。ゴールしたと思っても、まだまだ可愛くなれそうだと先は続く。見えない終着点を追い続ける旅は険しく苦しいかもしれないけど、その道は『大好き』が敷き詰められた素敵な旅路なのだ。だから彼女たちはガラスの靴で駆けていくだろうし、足を止めない彼女たちの笑顔こそが一番の『カワイイ』なのだ。

結びに。『カワイイ』は誰のためのものだろうか。自分のため、は勿論である。では、『どんな自分』のためだろうか。顔の良い者だろうか。服飾のセンスが良い者だろうか。男だろうか。女だろうか。大人だろうか。子供だろうか。どれも間違いではない。なりたい『カワイイ』になるために歩む者は、みな『カワイイ』に受容されて然るべきだ。

故にこのタイトルは「カワイイは研鑽する全ての者のために」をとった。

要領の得ない話を最後まで読んでくださりありがとうございます。ついでにSideMの新アプリ、LIVE ON ST@GE!が事前登録数到達できるか難しいところなので、気が向いたらどうか宜しくお願いします。

https://prereg.bn-ent.net/common/serial.php?app=imas_mstage

追記:先日事前登録者数が目標数50万に到達いたしました!ご協力いただいた全ての方にいちPとして感謝いたします。315プロ並びにとっても可愛くてプロ意識の高い元子役ユニットもふもふえんと、希望の旗を掲げる革命家ユニットF-LAGS(876と兼籍の秋月涼はこのユニットのリーダーです)を今後ともよろしくお願いします。